さぬきこんぴらさんの鎮座する香川県琴平町には大正の終わりごろまで“うどん講”というものがあった。町内のうどん好きが一堂に会して、こんぴらうどんの食いくらべ、早食い競争をやる集りである。たくさん食った者は一度に26、7杯は食べた。20杯くらいならザラであった。これは決してオーバーな話ではない。うどん代は平常から少しずつ集めてあるので当日は無料。
うどんはもちろん“湯だめうどん”これに濃い口のしょうゆをつけて、噛まずに、ツルツルとすするのである。思えば当時のうどんのダシ汁は関東流で、しょうゆも特別に濃かった。第一、いまのように薄口しょうゆなどなかったのだから無理もない。第一うどんそのものも現在のようにまっ白くてやわらかいものではなかった。というのは当時は純然たるさぬき産の小麦からとった地粉で、したがっていわゆる小麦色のうどんで、腰が強く、ピンと立った太いうどんばかりで、もちろん粉そのものも未晒ししかなかった。
うどんの器も、今のように深くて大きいうどん鉢でなく、ほとんどが少しふか目のうどん皿で、これに金色や赤や黄の美しい絵つけがしてあって、猪口も藍色の濃い絵つけが施され、これらを載せる膳(ぜん)は、もっぱら春慶塗りの軽い膳で、これには波模様の彫りがしてあった。われわれには、これらの道具類がなつかしてくたまらず、食欲もそそるわけだが、いまはお目にかかれない。
具(かやく)も何も使わず、細ネギを山のようにふりかけ、これを和ガラシの練ったのをダシ汁に入れてすすめるわけである。素朴そのものだが、わたしたちはこれがほんとうのさぬきうどんだと考えていたし、近ごろのうどんとはくらべものにならないくらいうまかった。
寒い時には、農家では“打ち込み汁”をよくやった。これも今の一般人には知らない郷土料理の秀逸だった。この汁のダシは、イリコなんか使わず、もっぱら野菜のもっている味を上手にダシていたのである。大根やニンジン、里芋、時にはタケノコなどを一時間もかけてグツグツと煮込む。そしてしょうゆで味をつける。煮立ったときに、うち立ての生うどんを刻み込むわけだが、それを椀に盛って汁とともにザブザブと食べるわけで、ヤマイモをすりかけると上等。
今は味噌汁仕立てにしたりするが、これは邪道だと思う。この時の生うどんには塩は使わない。塩をいれてうどんの団子をつくったりすると辛くて食べられたものでない。
時としてドジョウも姿のままいれて煮るが、とにかく現在はほとんど打ち込み汁はやらないし、やっても昔のそれとは味が随分違う。
また現在釜あげという食べ方があるが、これは昔の“イデゴミ”というもので、昔はもっぱらこの“イデゴミ”には生のしょうゆを、ちょっぴり落として、うどんが熱いうち、すなわち釜が打ち上げてすぐ食べたものである。
だから今の釜あげと昔のイデゴミとは味も姿も随分違っていた。
とにかく戦前までのさぬきうどんは、総じて素朴で、うどんのストレートな味を楽しんだものである。
もう一つ、念の入った食べ方があった。もちろんうどん店ではお目にかかれないもので、もっぱら山家の自家製うどん料理で、これにはタヌキの肉や野ウサギの肉がたっぷり入れてあった。これは味噌汁仕立てが多かった。タヌキの臭さ味を除くために味噌を使ったもので、これこそ本当のタヌキうどんであった。
ヤマドリうどんもよくやった。
撃って帰ったヤマドリやキジ、それにゴボウとすりダイコンをあしらった豪華な山家のうどん料理だが、親類に腕ききの猟師がいた関係で、ヤマドリうどん、タヌキうどんはよく食ったものだが、これが味わえない現代人には気の毒な気がする。
要するに現代よりは、純粋で素朴なさぬきうどんが、本当の本場手打ちさぬきうどんではなかろうか。高松の繁華街丸亀町の夜泣きうどんのかやく合戦も、今どき出現すればたちまち大評判になること間違いなしだが、それは昔のよき時代の夢でしかるまい。
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